あざなえる禍福の黄色いリボン

桜田淳子にまつわる個人的なもろもろを垂れ流すページ

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桜田淳子の存在感 1973年編 その2

「『スター誕生』でおなじみの〝ジュンコ〟です」
これは、月刊明星73年3月号の、桜田淳子の記事の見出しである。

発売は1月だから、デビューの一ヶ月前。
にもかかわらず、芸能誌の読者層から見て、彼女はもう「おなじみ」だったのだ。

その「スター誕生!」の誕生の経緯は、阿久悠の著書「夢を食った男たち」に詳しい。それを読めば、彼や池田文雄ら番組スタッフの並々ならぬ意気込みが伝わってくる。
…しかし、放送開始当初、画面からは、それを感じとることなどとうていできなかった。少なくとも、私には。

ここからしばらく、時系列に沿って、昔の私の感じたままを辿っていきたい。できるだけ、その頃の一視聴者の感覚を共有していただきたいからである。
無論、あくまで私個人のものに過ぎないけれど。


71年10月。秋の番組改変期。
私は、地方の小学四年生。民放テレビは2局しかなく、娯楽系の新番組はとりあえず全部見る。「スター誕生!」はその中の一つにすぎなかった。

公開オーディション番組であることは、特に珍しいとは思わなかった。
既に、同じ日テレ系列で「全日本歌謡選手権」があった。ただ、出演者はセミプロ中心で、厳しさがひしひしと伝わるもの。それに比べスタ誕は、いかにもバラエティ的でゆるい感じなのが違っていた、とは言えた。

審査員は辛口で、年端の行かない少女にもきつい批評をしていたと、今にして語られたりするが、いや、それは観点が違う。スタ誕は、覚悟が足りない若者でも出場できてしまっただけのこと。かなり手厳しいのも時にはあったけれど、「全日本~」の方は褒めることすらめったにない。それに比べれば、全然生ぬるい印象だったのだ。

それはともかく、テレビの前の移り気なガキの一人であった私が、その後もチャンネルを合わせていたのは、ただ、欽ちゃんのコントコーナーが目当てだった。

そして12月、都はるみを達者に唄う、演歌の天才少女が登場する。森田昌子…後の森昌子だ。
私は子供の頃から演歌が苦手だったけれど、例外的に都はるみは好きで、彼女にも好感を持った記憶がある。ただ、演歌を歌うにはあまりに若いということ以外、特に意外性は感じなかった。選曲やパフォーマンスの点では「全日本~」と相違なかったからだ。

しかし、その直後の72年1月、彼女が再登場した第一回決戦大会には衝撃を受ける。スカウティングそのものをイベントにするという、今まで見たことのないシークエンスに対してだ。そこで初めて、「スター誕生!」のオーディション番組としての特殊性を認識したと思う。

そして、わずか13歳の森田昌子が、最もスカウトの注目を集め、グランドチャンピオンに選出。
さらには、その後の彼女のデビューにいたる過程を、番組が逐次紹介する。それは「森田昌子」が「森昌子」になっていくドキュメントと言えた。
その反響だろう、出場者はもともと若者中心だったけれど、中高生がかなりの比率を占めるようになり、平均年齢は一段と下がった。

しかし、72年春に五年生になった私は、さる事情で日曜の午前中が多忙になり、毎週見ることは出来なくなる。

桜田淳子が登場したのは、そんな折りの8月だ。
その秋田大会で伝説の573点をたたき出すのだが、多分、その放送は見ていないと思う。なんとなく見たような気もするのは、その後、ビデオかスチールで何度かプレイバックされたためだろう。
ただ、決戦大会はいつも見ようと思っていたし、次回のそれには、恐らくクラスメートからの情報だろうが、その最高得点記録の娘が登場することは知っていた。

そして、9月の第四回決戦大会。
折りしも、巷では7月にデビューした森昌子が「せんせい」で旋風を巻き起こしていた。スタ誕への注目度もぐっと上がっていた頃だ。

桜田淳子のスカウト番、欽ちゃんの「よろしくお願いします!」の掛け声の後、恐ろしい勢いで林立したプラカード。
その瞬間、欽ちゃんが、会場が、そして、私を含めたテレビの視聴者がどれだけ興奮したか、お判りになるだろうか。

明日の大スターの誕生に、リアルに立ち会ったという実感。今風に言うなら、まさに「祭りだ!」「キターーーー!!」である。

森昌子の大ヒットのさなかの、桜田淳子の25社プラカード、この合わせ技により、風向きが変わった。それは、パンピーのガキの私でもはっきりと感じた。
これからのスターは、こうした視聴者との共有体験によって生まれるという感覚が私に芽生え、それまでのスターシステムが、一挙に前世紀の遺物のように思えた。
決して大げさではなく、本当にパラダイムシフトが起きたのだ。

ただ、それで私が彼女のファンとなったわけではないし、多くの視聴者もそうだろう。
いや、ファンとなったのはむしろ「スター誕生!」に対してだ。そこから新しい人材が次々出てくることは既定のことに思えたし、明日への期待に打ち震えた。
「スター誕生!」こそがスターとなった、と言える。

そして、その後のスタ誕は、可愛い子ちゃんの品評会な様相になっていった…私にはそんなイメージがある。
ただ、それは自信を持って断言できない。ある1回の放送分をまるまる覚えてはいないし、毎週見て定点観測した感覚があるわけでもない。「スタ誕=アイドル量産番組」という後付けの辞書的知識によって、断片的な記憶が都合よく再構成されたものかも知れないのだ。


ここでリアルタイムの印象を離れ、今ある資料を参考に、俯瞰する形で再検証してみたい。

「スター誕生!」の企画会議は71年6月に始まっている。
阿久悠はテレビ時代のスターを、池田文雄は芸能界の覇権を握るナベプロの手垢無しのタレントを、それぞれ求めた。
ところが、スタ誕の放送開始とほぼ時を同じくして、まさに「テレビスター」の模範解答と言える存在が、よりによってナベプロから登場する。「天地真理」である。

これに関して、スタッフの思いはどうだったのだろう?焦りはなかったのか?
いや、少なくとも池田氏は、桜田淳子を見たとき「ようやく天地真理や南沙織な素材が現れた!」と、思ったに違いない。

森昌子が呼び水となって、スタ誕応募者は少女が中心になったが、その中から「可愛い子ちゃん」が登場するのは、本当に、ただの時間の問題だったはずだ。1月の昌子の決算大会から8月の秋田本選まで半年。むしろ、それだけかかってしまったのが不思議なくらいである。
ただ、淳子は、伝統的な青春スターぽい容姿と、森昌子の若さを兼ね備えていたという点では、より理想的だったかも知れない。

阿久悠は、著書で「桜田淳子の出現は、ぼくらが求めているテレビの時代のスター歌手のイメージを決定づける効果があった」と書いている。
しかし、既に「天地真理」という正解が出ていた以上、私は桜田淳子が「スター歌手のイメージを決定」したとは思わない。この文章のキモは「ぼくらが求めている」の箇所だ。

つまり、番組が欲しているのはどういう存在か、彼女は、それを視聴者に訴える絶好のアドバルーンになった。
歌の上手さが第一条件ではないのだ。
そして、多くの少女たちの、現実感のない漠とした夢に道筋を与え、「この番組なら、もしかして私も!」と思わせただろう。

前述したように、私はスタ誕を続けて見られなかったし、桜田淳子個人への関心も薄かったので把握できていないが、昌子同様、デビューまできっちりスタ誕で紹介され続けたはずだし、スターを夢見る同世代の少女たちの話題に、少なからず上っていただろう。
これで「おなじみ」にならないわけがない。

のちに「時代を変えた社会現象」とまで称される「スター誕生!」、その申し子の桜田淳子は、1973年2月25日、満を持してデビューした。
決戦大会から五ヶ月しか経っていないにも関わらず、私は「正式デビューはまだだったのか」と、むしろ意外に思ったことを覚えている。

次回「1973年編その3」では、レコード大賞をからめ、歌謡業界的な観点から述べる。

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