あざなえる禍福の黄色いリボン

桜田淳子にまつわる個人的なもろもろを垂れ流すページ

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口上

きっかけは、YouTubeだった。
ふと目にしてしまった、桜田淳子の、アイドル歌手時代の映像。

胸が詰まった。自分でも驚くくらい動揺した。
かつて夢中だった姿、それを30年ぶりに目の当たりにした時、懐かしさに心地よく浸ることなど、とても出来なかった。
リンクされた動画のいくつかを辿ってみたものの、慣れて落ち着くどころか、情緒不安定はいや増すばかり。

思い知らされた。
自分にとって彼女は、未だに特別な存在なのだと。
そして思った。
「……なんでこんなことに……」
自分のことではない。現在の彼女についての慨嘆である。

彼女は、人気絶頂期ですら、好きと公言するのは妙にはばかられる存在だった。
私自身は、自他共に認めるファンではあったけれど、彼女の歌手としてのパフォーマンスには多分に批判的だったし、「それでどこが好きなん?」と問われれば、説明に倦み、口淀むことが多かった。
その時点から十余年後、アイドル歌手という先入観がようやく世間から薄れ、普通に女優として認知されつつあった矢先……とてつもない爆弾が待っていた。

私にとって美しい思い出となるべきものは、梯子を外され宙ぶらりん。
それどころか、見えない棘となり、幻肢痛になっていたのだった。

そんな痛みを共有できる場所がないものか、ネットの掲示板を巡ってみた。
結果として願いは叶わなかったが、ある事実を知った。ライブアルバムのCD-BOXの発売。NHK「ビッグショー」の映像特典付き。

驚いた。よくぞそんなものを…
LPの何枚かは実家にまだあるはずだが、再生装置はとうに失われている。もう二度と聴くことは能うまいと思っていたものたち。
「ビッグショー」も、当時、ようやく出始めのホームビデオを持つ友人に頼み込み、撮ってもらった。しかし、いつしかテープはカビだらけになり、捨ててしまった。
この機会を無視することなど、どうしてできる?

…というわけで、実際に今、手元にそれがある。
しかし、未だ再生する勇気がない。そうすると自分がどうなるか、容易に想像がついてしまうからだ。いいおっさんがむせび泣く姿なんて、はたから見れば不気味以外のなにものでもない。
しかも、それは初聴だけとは限らないし、さらには、今後新たなソースが登場する可能性だってある。

この煩悶を、ずっとずっと引きずっていくのだろうか…?

そこで考えた。彼女に関しての文章を、他人に読まれる可能性のある場で綴ることで、自己を客体化でき、気持ちの整理がつくかも知れないと。
ネタとして、嫌でも音源や映像に立ち向かわざるを得ないだろうし。

これが、このブログを開いた動機である。

まあ、実際に癒されるかは、やってみないと判らない。
いつまで続くかも、判らない。

私は本来、不特定多数に発信する嗜好は持ちあわせていない。
ネットに自分のページがないわけではないが、友人限定のクローズドなものばかりだ。
ただ、この件に関しては、知人たちに語る気にはなれない。むしろ、見ず知らずの誰かという漠とした対象でないと、とても筆を取れない。
とはいえ、基本的に鬱陶しい自己語りが中心であり、自分のためだけの行為なので、特に反応も期待しない。

それでも、もし痛みを分かち合える人と出会えたら…という甘くて淡い期待も正直ある。
それが現実となるなら、望外の幸せである。
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はじめての…

まずは、私が桜田淳子ファンとなったきっかけから記そうと思う。

実は、最初の頃の印象は、はなはだ芳しくなかった。
彼女が14才でデビューした1973年2月に、私は生意気盛りの小学五年生。エンゼルハットにときめいたりはしなかったし、クッククックなんてガキっぽいと思い、「この花は私です」に鼻白んだ。

転機となったのは、私が中一(74年)の12月、ラジオで耳にした「はじめての出来事」。このメロディーに、一目惚れならぬ一聴惚れしてしまったのだ。

実績としても、この曲は彼女唯一のオリコンNo.1ヒットとなる。さらに、続くシングル「ひとり歩き」も「はじめての出来事」以上に素晴らしい曲だった。
そしてまた、この一年間(74年末~75年末)は、彼女の容貌が最高に輝いていた時期でもあった。

…まあ、それは私の主観である。しかし、その直前ではまだ子供っぽさが抜けず、76年に入る頃は妙にぽっちゃりしてくる。後に、淳子嫌いのクラスメート数人からも「あの頃は確かに可愛かったよね」と言われたし、割と一般的な感想ではないかと思う。

ここで、YouTubeから当時の映像を。75年夏の「十七の夏」。



口パクだし、服装も髪型も時代を感じさせるけれど、今見ても大変に魅力的な顔かたちと思うのは、ひいき目だろうか?

閑話休題。

最高の曲と最高のルックス。
その奇跡の巡り会わせによって、75年は桜田淳子が席巻した。人気、売上とも女性歌手ではNo.1だったはずだ。

というわけで、その年に私が彼女に転んだのは、いたって普通の、ありきたりなことだったろう。
ただ、少しばかり回りと違っていたとしたら、若干凝り性ゆえ、中坊のくせに芸能雑誌を買い漁ったことだろうか。
月刊明星、月刊平凡、近代映画、スターランド、さらに週刊の明星&平凡、週プレ、パンチ、はては女性セブンや女性自身まで。小遣いではとても足らず、「弁当はいらないから」と言って、代わりにせしめた昼食代を犠牲にし。

そして、それらの記事を読み込むうち、生身の彼女が自分の中で焦点を結び始めた。

そんな媒体が当てになるか?と問われれば、無論、提灯な作文ばかりなのは間違いない。特に月刊誌の方の、万事綺麗ごとなまとめっぷりはすさまじい。それに、彼女自身、事務所的な公式見解は頑なに守ろうとする人でもある。
ただ、それでもすり抜けてくるもの、最大公約数的に浮かび上がるものがあるのだ。さらに、別の人の記事の中で、彼女に言及したリする部分が重要だったり。

桜田淳子といえば、恵まれた境遇の元、日のあたる道の真ん中を行く、快活で自信に満ちた少女…というのが、当時の一般的なイメージと思う。
しかし実際には、人気に実力が追いついていないと思い詰め、もがき苦しむ、葛藤の人だったのだ。

彼女のパーソナリティをいくつか箇条書きしてみる。
・幸福な家庭の末っ子の典型で、願望が充足されないことへの耐性が低く、負けず嫌い。
・自分のパフォーマンスで他人を喜ばせることに幸せを感じる、根っからの表現者。
・自分が他者からどう見えているか、どうにも気になってしまう性格。誤解されること、驕りたかぶっていると思われることに耐えられない。
・心理学で言うところの超自我(倫理我)が非常に強い人。正しい、またはやるべきと信ずることから外れるのを生理的に嫌う。

勝ち気かつサービス精神旺盛かつ自意識過剰かつ生真面目で責任感が強い人間が、自分は理想からほど遠いと自覚していた…ということ。それは必然に、何ごとにも一所懸命に、努力で克服しようとする強い動機づけを生む。
けれども、それが往々にして空回りし、いまひとつ報われない感がつきまとった。

そのもどかしさが、どうにも切なく、愛おしく、また、私も当時ナイーヴ(笑)なお年頃で、上記の点でいくつか共感する所もあり、75年をピークに人気が下降線をたどるにつれ、むしろ「応援せねば!」とますます入れ込んでいった。

単純な好き嫌いの次元を超え、私にとって桜田淳子が特別な存在となってしまった、これが経緯である。
…まあ、勝手な思い込みは多分にあったろうけれど(笑

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桜田淳子考察 序論

いきなり大上段に振りかぶってみます。
「桜田淳子」とは、いったい何だったのか?

40歳以上の方ならほとんど「70年代のアイドル歌手の一人」といった認識をお持ちでしょう。30歳以上なら、それを知識としてお持ちの方も多いと思います。
無論それで間違いないのですが、ややこしいことに、「アイドル」はその70年代に意味合いが変貌した言葉です。彼女はその渦中にいて、変化の一翼を担っていたわけで、その単語で片付けてしまうなら、そうなさしめた影響力の部分を見過ごすことになるでしょう。

それに、実際問題、一口にアイドルといっても多種多様、立ち位置は微妙に違っていました。

例えば、当時のアイドル人気を測るバロメータとして、重要度トップ3というと…
・オリコンデータ(チャート&売上)
・月刊明星人気投票
・マルベル堂ブロマイド売上
…と、私は考えていますが、各々に強い相関があるのは当然だけれど、けっこう偏りもあったりします。後の2つがトップレベルなのにチャートではさほどでもなかったり、ブロマイド売上だけが突出していたり。そういった求められ方の差は、各人の違いを如実に反映しているかと思います。

淳子さんに関しても、そういったデータを元に論じていきたいと思いますが、しかし、本人を特徴付ける要素を並び立てるだけでは意味がありません。流行を担う消費文化の一環である以上、それがいかに認知されていたかの方が重要で。
上記のデータやセールスは、積極的な支持者の数の反映に過ぎず、そこには現れない、より多くの人々の感覚といった視点も必要でしょう。

まあ、アイドルはつまるところ個人の好みの問題ですから、一般論にする意味など、実はあまりないと思っています。
しかし、桜田淳子という存在がどう受け止められていたかを、むやみに賞賛するだけではなく、いたずらに貶めるでもなく、冷静に論じたものを見た記憶はほとんどないのです。

その辺りを、このwebで少しずつでも手繰っていければ…などと、大それたことを考えています。

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青い鳥の謎

ちょっとした謎かけをします。

歌手桜田淳子の、知名度ナンバー1の楽曲と言えば、何と言っても「わたしの青い鳥」なのは間違いないでしょう。
よくデビュー曲と勘違いされますが、実際には三曲目になります。

その後何年たっても、歌手を辞め女優に専念した後でも、インタビューやTVの対談番組などでは、「あの『クッククック』の淳子ちゃんが、こんなに大人の女性に…」と、判で押した様に言われ続けていました。

ところが、この「わたしの青い鳥」は、数字的には大したヒット曲ではありません。オリコンで最高18位に過ぎず、当時のディレクター氏は、その成績に「これでもダメか」と頭を抱えたそうです。
売上でいうと、彼女の最大のヒット曲である「はじめての出来事」の1/3に満たない16万枚。全シングルの上から数えて、なんと17番目となります。

アイドルソングが、知名度とセールスにギャップがあるのはよくあることですが、それにしてもこれは極端でしょう。

謎その1。
なぜ、「わたしの青い鳥」が一番有名なのか?

次に、もしあなたが当時の彼女を記憶していたなら、「エンゼルハット」と呼ばれた白のキャスケットをかぶって「クッククック」と唄う彼女の姿を脳裏に浮かべるかも知れません。

ここで、この前の8月に放送されたドラマ「ヒットメーカー阿久悠物語」で、鈴木愛理という子が桜田淳子を演じた映像をどうぞ。



似ているかどうかはさておき、このビジュアルがまさしく桜田淳子のパブリックイメージなのでしょう。

ところが、これには事実と違う点があります。
実は、彼女はこの帽子で「わたしの青い鳥」を唄ったことはありません。淳子ファンならば常識のことですが、かぶっていたのは二曲目の「天使の初恋」までなのです。

謎その2。
なぜ、ありもしないイメージが共通認識化してしまったのか?

さらに、彼女はこの曲で1973年の日本レコード大賞最優秀新人賞を取っていますが、これもまた不思議なことです。

この年のレコード大賞新人賞各者の対象曲の、売上データ(オリコン調べ)をあげてみます。
浅田美代子「赤い風船」48万枚。
安西マリア「涙の太陽」13万枚。
あべ静江「みずいろの手紙」26万枚。
アグネス・チャン「草原の輝き」45万枚。
特に、アグネス・チャンはデビュー曲の「ひなげしの花」から続けて30万~50万クラスの大ヒットを連発中でした。

次に、74年の月刊明星のオールスター人気投票のデータを。
これは、毎年夏に行われるもので、73年度デビュー組の数字がフルに反映された最初の回と言ってよいでしょう。

女性部門
1山口百恵     100,586
2アグネス・チャン  77,976
3浅田美代子     41,173
4南沙織       41,040
5桜田淳子      34,580

百恵さんがいきなりすごいですね。
上記の新人賞受賞者の中では、アグネスさんが淳子さんのダブルスコア。しかも、もしこれが半年前に実施されたとしたら、この差はもっとあったと推測されます。

というわけで、対象者の中では、売上とアイドル的人気、その両面においてアグネス・チャンが他を圧倒していたのです。

では、淳子さんの最優秀新人賞受賞は、事務所の力によるもの?
彼女はサン・ミュージック。確かに今でこそ業界大手ですが、当時はまだ弱小プロの一つ。一方、アグネスは天下のナベプロで、浅田美代子は老舗の芸映、とても比較になりません。

TV局のバックアップ?
73年の日本歌謡大賞は、NTVの制作番だったので、スタ誕出身の淳子さんがその新人賞を取ったのは不思議ではないかも知れません。しかし、レコード大賞を担うはライバルTBSで、浅田美代子はTBSドラマからのデビュー組。本来なら、これも美代子さんに大きなアドバンテージがあったはず。

客観的に条件を鑑みれば、最優秀新人賞の目はとてもなさそうに思えます。
実際、淳子のマネージャ氏は、普通なら、とりあえず押さえておく受賞後のパーティ会場を用意していなくて、大いにあわてたそうです。

謎その3。
なぜ、最優秀新人賞を受賞できたのか?

ところで、以前書いた通り、私はこの時点ではまだ淳子さんのファンではありません。
それどころか、別に応援する存在があり、彼女が各新人賞を総なめした時は、全く快く思わなかった…というか、正直言って、相当に口汚く罵った記憶があります。
しかし、受賞自体は、特に意外とは思いませんでした。「やっぱりか、ちくしょー」ってな感じです。

つまり、淳子さんは、デビュー当時、セールスやランキングといった数字で現れる以上に、強い存在感を回りに与えていたと言う他ない。
上記の様々な謎は、端的にはこれに起因すると思います。

その存在感の源泉は何か…それは、次回の「桜田淳子論」カテゴリの項に続けます。

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桜田淳子の存在感 1973年編 その1

11/8のポスト「青い鳥の謎」にて、桜田淳子はデビュー当時、数字実績以上に存在感があったことに触れた。
その要因、要素について、この項で論じたい。

まずは、72~73年の彼女の事跡を箇条書きしてみる。

■72年
・7月スター誕生!秋田大会本選にて573点(当時の最高得点)で合格
・9月スター誕生!決戦大会にて25社から指名、第4代グランドチャンピオン
■73年
・2月「天使も夢みる」12位/12万枚(デビュー曲)
・エンゼルハットがちょっとしたブームに
・5月「天使の初恋」27位/7万枚
・8月「わたしの青い鳥」18位/16万枚
・10月よりTV連続ドラマ「てんつくてん」出演(森昌子と共演)
・10月新宿音楽祭銀賞
・11月「花物語」9位/24万枚
・11月日本歌謡大賞新人賞(アグネス・チャンと同時受賞)
・12月レコード大賞最優秀新人賞
・紅白には未選出

たったこれだけから「存在感」について推し量るのは無理がある。それに、実際のところ存在感の尺度など存在しないし、間接的に裏付けできそうな資料も、色々探してはみたものの、そうそう見つからない。
結局は、あくまでも私個人の印象批評に過ぎなくなる。その前提で、以下のご拝読を願う。

桜田淳子の存在感の源泉になったもの、その筆頭に挙げるべきは「若さ」と思う。
ごく当たり前のことと思われるかも知れない。しかし、これこそ最も重要な点だったと考えている。

TVという日常的なメディアの中で若さを売りにするタレント、といった流れで言えば、70年の岡崎友紀18歳、71年に南沙織17歳…ときて、この73年2月に桜田淳子の14歳。しかも、見た目はもっと幼くも見える。
私自身はさらに若い小学生だったから、リアルタイムには実感できていなかったけれど、今、立派に中年オヤジになって、デビュー時の彼女の映像を見ると…「ついにここまで」と、相当数の人々が思ったであろうことは、容易に想像がつく。

とはいえ疑問に思う人も多いだろう。森昌子はこの約半年前のデビュー時点で13歳だし、フィンガー5の妙子は73年に11歳、同年に山口百恵も登場している。淳子が特別に若かったわけではないと。
ただ、昌子は「歌の天才少女」、妙子はグループのマスコット的位置づけで、両者とも、所謂「可愛い子ちゃん歌手」…歌手なのにルックス優先という、ネガティブなニュアンスを含む…の範疇からは外れていたし、百恵は年齢のわりに大人びたイメージで売っていたわけで。

この年のチャートでは、天地真理や麻丘めぐみやアグネスや浅田美代子らには遠く及ばなかった桜田淳子だが、少女性では「若さ」こそアドバンテージ。「可愛い子ちゃん歌手」として一般にイメージされる存在としては、ほぼ引けを取らなかったはずだ。

また、上に付随して挙げたい要素として「表情や仕草」がある。

彼女は歌手時代を通し「わざとらしい」と揶揄され続けた。
特にデビューの頃が一番、ぶりっこな愛嬌を過剰に振りまいていた…のだが、まだその時点では、さほど目くじらを立てられていなかったように思う。
大人層からはむしろ、子供らしい愛くるしさとして、好感を持たれていた感もある。若さをより補強する形になっていたわけだ。

それは、キャッチフレーズである「天使」のような女の子を演じようとする、彼女の旺盛な芝居っ気がもたらしたものと私は思っているが、これに関連して、もう少し述べたい。

阿久悠が、スター誕生秋田大会にて桜田淳子と最初に出会ったときのことは、彼の著作に再三書かれている。
「神がかり的なことを言うようだが、至極平凡な少年少女の輪の中で一人だけ浮き上がって見える、あるいは、淡い蛍光色に光るように思える少女がいた」
「700人からの予選を突破したニ週分十四人の少年少女が県民会館の客席で収録開始を待っていた。<中略>ごくごく普通の中学生たちの緊張のない語らいと書いたが、その通りでありながら、実に見事に背後からの視線を受けとめている少女がいて<中略>彼女は白いベレーをかぶっていた」

いくらなんでも「蛍光色に光る」とは言いすぎな気もするが、それは、桜田淳子自身の自己演出の意識、緊張感に、阿久悠が敏感に反応したものと言えないだろうか。

ただ、この「背後からの視線を受けとめている」というのが具体的にどんなだったか、確かめられる映像は残っていない。
淳子が歌う秋田大会の映像が残っていて、ネットでもアップされているが、それは、阿久悠が立ち会う前の予選会のもの。それを見る限りでは、確かに目立っているけれど、彼が言うほどのものは私には感じ取れない。
まあ、700人の中にいるのと、14人の一人として番組の収録会場にいるのとでは大いに違うだろうから、何とも言えないけれども。

とりあえず、デビュー前から、桜田淳子が人目を引くことに自覚的だったことは恐らく確かで、それは天性の資質と言っていいと思う。

詳述するとどんどん長くなるので、あとの要素は簡単に書く。

「顔立ち」
桜田淳子の顔立ちは、当時のアイドルのメインストリームである天地真理や麻丘めぐみらとは、趣きが違っていたように思う。むしろ、吉永小百合→酒井和歌子→吉沢京子といった、古典的な系譜に近い。
これはかなり重要な点ではないだろうか。
池田文雄、堀威夫、福田時雄といったお歴々を色めき立たせ、芸能マネージメントに携わる上の世代にも「この娘は売れる」という判りやすい訴求力となり、25社プラカードの、最大の原動力になったに違いないと私は思うのだ。

「シンボル」
今、50近い年齢になって嫌でも自覚させられるのだが、歳をとると記憶力がめっきり衰える。強い印象を受けても、脳裏から消え去るのはすぐ。とっかかりとなるもの、シンボリックな何かがあるのとないのでは、定着力が大きく違ってくる。
そして、桜田淳子にはそれがあった。あの「エンゼルハット」と、それに「クッククック」である。
特に「クッククック」の威力は抜群で、その仕草は若さを表象して余りある。
極言すれば、「わたしの青い鳥」という楽曲が流行ったのではなく、「クッククックの仕草」が、お茶の間にもインプリンティングされてしまったのだ。

以上、大人を中心とした一般層に対して、彼女がいかに印象的だったか、そのポイントについて書いてみた。

しかし、その層は、彼女のレコードのターゲットゾーンではないわけで、いくら認知度が高くとも販売には結びつきにくい。
また、高校生大学生の男子からは躊躇われる幼さだっただろうし、私のような彼女の同世代以下にしても、むしろもっと大人びたものを求めがちだった。
結果、「わたしの青い鳥」が実セールスではさほどではなかったのも至極当然に思う。

けれども、彼女の存在感に関して、私を含め当時の若年層にとって、とても大きな要因となったことが他にある。
次回「1973年編 その2」ではその点について述べたい。

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桜田淳子の存在感 1973年編 その2

「『スター誕生』でおなじみの〝ジュンコ〟です」
これは、月刊明星73年3月号の、桜田淳子の記事の見出しである。

発売は1月だから、デビューの一ヶ月前。
にもかかわらず、芸能誌の読者層から見て、彼女はもう「おなじみ」だったのだ。

その「スター誕生!」の誕生の経緯は、阿久悠の著書「夢を食った男たち」に詳しい。それを読めば、彼や池田文雄ら番組スタッフの並々ならぬ意気込みが伝わってくる。
…しかし、放送開始当初、画面からは、それを感じとることなどとうていできなかった。少なくとも、私には。

ここからしばらく、時系列に沿って、昔の私の感じたままを辿っていきたい。できるだけ、その頃の一視聴者の感覚を共有していただきたいからである。
無論、あくまで私個人のものに過ぎないけれど。


71年10月。秋の番組改変期。
私は、地方の小学四年生。民放テレビは2局しかなく、娯楽系の新番組はとりあえず全部見る。「スター誕生!」はその中の一つにすぎなかった。

公開オーディション番組であることは、特に珍しいとは思わなかった。
既に、同じ日テレ系列で「全日本歌謡選手権」があった。ただ、出演者はセミプロ中心で、厳しさがひしひしと伝わるもの。それに比べスタ誕は、いかにもバラエティ的でゆるい感じなのが違っていた、とは言えた。

審査員は辛口で、年端の行かない少女にもきつい批評をしていたと、今にして語られたりするが、いや、それは観点が違う。スタ誕は、覚悟が足りない若者でも出場できてしまっただけのこと。かなり手厳しいのも時にはあったけれど、「全日本~」の方は褒めることすらめったにない。それに比べれば、全然生ぬるい印象だったのだ。

それはともかく、テレビの前の移り気なガキの一人であった私が、その後もチャンネルを合わせていたのは、ただ、欽ちゃんのコントコーナーが目当てだった。

そして12月、都はるみを達者に唄う、演歌の天才少女が登場する。森田昌子…後の森昌子だ。
私は子供の頃から演歌が苦手だったけれど、例外的に都はるみは好きで、彼女にも好感を持った記憶がある。ただ、演歌を歌うにはあまりに若いということ以外、特に意外性は感じなかった。選曲やパフォーマンスの点では「全日本~」と相違なかったからだ。

しかし、その直後の72年1月、彼女が再登場した第一回決戦大会には衝撃を受ける。スカウティングそのものをイベントにするという、今まで見たことのないシークエンスに対してだ。そこで初めて、「スター誕生!」のオーディション番組としての特殊性を認識したと思う。

そして、わずか13歳の森田昌子が、最もスカウトの注目を集め、グランドチャンピオンに選出。
さらには、その後の彼女のデビューにいたる過程を、番組が逐次紹介する。それは「森田昌子」が「森昌子」になっていくドキュメントと言えた。
その反響だろう、出場者はもともと若者中心だったけれど、中高生がかなりの比率を占めるようになり、平均年齢は一段と下がった。

しかし、72年春に五年生になった私は、さる事情で日曜の午前中が多忙になり、毎週見ることは出来なくなる。

桜田淳子が登場したのは、そんな折りの8月だ。
その秋田大会で伝説の573点をたたき出すのだが、多分、その放送は見ていないと思う。なんとなく見たような気もするのは、その後、ビデオかスチールで何度かプレイバックされたためだろう。
ただ、決戦大会はいつも見ようと思っていたし、次回のそれには、恐らくクラスメートからの情報だろうが、その最高得点記録の娘が登場することは知っていた。

そして、9月の第四回決戦大会。
折りしも、巷では7月にデビューした森昌子が「せんせい」で旋風を巻き起こしていた。スタ誕への注目度もぐっと上がっていた頃だ。

桜田淳子のスカウト番、欽ちゃんの「よろしくお願いします!」の掛け声の後、恐ろしい勢いで林立したプラカード。
その瞬間、欽ちゃんが、会場が、そして、私を含めたテレビの視聴者がどれだけ興奮したか、お判りになるだろうか。

明日の大スターの誕生に、リアルに立ち会ったという実感。今風に言うなら、まさに「祭りだ!」「キターーーー!!」である。

森昌子の大ヒットのさなかの、桜田淳子の25社プラカード、この合わせ技により、風向きが変わった。それは、パンピーのガキの私でもはっきりと感じた。
これからのスターは、こうした視聴者との共有体験によって生まれるという感覚が私に芽生え、それまでのスターシステムが、一挙に前世紀の遺物のように思えた。
決して大げさではなく、本当にパラダイムシフトが起きたのだ。

ただ、それで私が彼女のファンとなったわけではないし、多くの視聴者もそうだろう。
いや、ファンとなったのはむしろ「スター誕生!」に対してだ。そこから新しい人材が次々出てくることは既定のことに思えたし、明日への期待に打ち震えた。
「スター誕生!」こそがスターとなった、と言える。

そして、その後のスタ誕は、可愛い子ちゃんの品評会な様相になっていった…私にはそんなイメージがある。
ただ、それは自信を持って断言できない。ある1回の放送分をまるまる覚えてはいないし、毎週見て定点観測した感覚があるわけでもない。「スタ誕=アイドル量産番組」という後付けの辞書的知識によって、断片的な記憶が都合よく再構成されたものかも知れないのだ。


ここでリアルタイムの印象を離れ、今ある資料を参考に、俯瞰する形で再検証してみたい。

「スター誕生!」の企画会議は71年6月に始まっている。
阿久悠はテレビ時代のスターを、池田文雄は芸能界の覇権を握るナベプロの手垢無しのタレントを、それぞれ求めた。
ところが、スタ誕の放送開始とほぼ時を同じくして、まさに「テレビスター」の模範解答と言える存在が、よりによってナベプロから登場する。「天地真理」である。

これに関して、スタッフの思いはどうだったのだろう?焦りはなかったのか?
いや、少なくとも池田氏は、桜田淳子を見たとき「ようやく天地真理や南沙織な素材が現れた!」と、思ったに違いない。

森昌子が呼び水となって、スタ誕応募者は少女が中心になったが、その中から「可愛い子ちゃん」が登場するのは、本当に、ただの時間の問題だったはずだ。1月の昌子の決算大会から8月の秋田本選まで半年。むしろ、それだけかかってしまったのが不思議なくらいである。
ただ、淳子は、伝統的な青春スターぽい容姿と、森昌子の若さを兼ね備えていたという点では、より理想的だったかも知れない。

阿久悠は、著書で「桜田淳子の出現は、ぼくらが求めているテレビの時代のスター歌手のイメージを決定づける効果があった」と書いている。
しかし、既に「天地真理」という正解が出ていた以上、私は桜田淳子が「スター歌手のイメージを決定」したとは思わない。この文章のキモは「ぼくらが求めている」の箇所だ。

つまり、番組が欲しているのはどういう存在か、彼女は、それを視聴者に訴える絶好のアドバルーンになった。
歌の上手さが第一条件ではないのだ。
そして、多くの少女たちの、現実感のない漠とした夢に道筋を与え、「この番組なら、もしかして私も!」と思わせただろう。

前述したように、私はスタ誕を続けて見られなかったし、桜田淳子個人への関心も薄かったので把握できていないが、昌子同様、デビューまできっちりスタ誕で紹介され続けたはずだし、スターを夢見る同世代の少女たちの話題に、少なからず上っていただろう。
これで「おなじみ」にならないわけがない。

のちに「時代を変えた社会現象」とまで称される「スター誕生!」、その申し子の桜田淳子は、1973年2月25日、満を持してデビューした。
決戦大会から五ヶ月しか経っていないにも関わらず、私は「正式デビューはまだだったのか」と、むしろ意外に思ったことを覚えている。

次回「1973年編その3」では、レコード大賞をからめ、歌謡業界的な観点から述べる。

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桜田淳子の存在感 1973年編 その3

1973年12月31日、レコード大賞放送日。
壇上に並ぶ5人の新人賞受賞者…全員が若い女性だったが、その中でも、場違いと思えるほどにうら若い少女が、最優秀に選出された。
そして、涙ながらに「わたしの青い鳥」を歌うその姿は、年末年始くらいしか歌番組を見ないような人たちにも「桜田淳子」という名を記憶させただろう。

ところで、その年の新人歌手の実績数字について、11/8のポスト「青い鳥の謎」で触れたが、その後に手に入れた資料から、追加で記してみる。

オリコンによる、73年度(72年11月~73年10月、発売日基準)のシングル売上総数は…
アグネス 162万
浅田美代子 73万
桜田淳子 35万
山口百恵 26万

そして、月刊明星74年1月号の「あなたが選ぶ'73新人歌手ベスト10」(11月10日締切)によると…
アグネス  167,154
浅田美代子 127,164
桜田淳子  122,744
山口百恵  105,666
フィンガー5 98,670

やはり、アグネスがダントツだ。

青い鳥の謎」では、74年夏の月刊明星オールスター人気投票の結果をあげ、「アグネスさんが淳子さんのダブルスコア。しかも、もしこれが半年前に実施されたとしたら、この差はもっとあったと推測されます」と書いたが、これを見るとそんなに差はないように見える。
しかしこれは、一回の応募で三名併記という投票方法によるものだ。それでは上位が平準化されてしまうわけで、首位と4万票の差は、相当に大きい。

ところが、レコード大賞最優秀新人賞の得票数では…
桜田淳子 20
浅田美代子 7
アグネス 5
あべ静江 4
安西マリア 1

…私は最近、ようやく知ったのだが、桜田淳子の圧勝である。
当時は淳子ファンではなかった私でも、受賞には違和感を持たなかったくらいに、彼女に存在感があったのは確かだけれど、それにしてもこの票差は……にわかには信じがたい。何か、違う次元のファクターが働いたとしか思えない。

ここからは、いつも以上に話半分に読んで欲しい。芸能ゴシップ的内容だし、論旨のほとんどが推測だからだ。

この1973年春、芸能界を揺るがす事件が起きた。
業界に圧倒的な影響力を誇り「帝国」と呼ばれた渡辺プロダクション…ナベプロと、長く蜜月を保っていたはずの日本テレビ、その両者の関係が、戦争と言っていいほどに悪化した。

直接の原因は、ナベプロが他局と組んで、スタ誕の類似番組を、日テレの看板歌番組「紅白歌のベストテン」と同じ時間にぶつけてきたことによる。
明確に、ナベプロが喧嘩を売ったようなもので、それを、当時の日テレの局次長が買った。
結果、日テレの番組からナベプロのタレントの姿が消えた。

詳しくは、wikipediaの「渡辺プロ事件」をご参照あれ。

そこから、日テレは踏ん張る。
スタ誕で築いたホリプロ等とのパイプを最大限生かす。
ナベプロ抜きでもバラエティ番組で成功できることを証明する。
当然、中三トリオといった自前のタレントも前面に出しまくる。

そして、ナベプロ企画のオーディション番組「あなたならOK」は、散々な成績で半年で終了した。形的には日テレの勝利。

結果として、この事件が、芸能プロダクションとテレビ局の力関係が逆転する端緒となったそうだ。
少なくとも、新たなスターシステムは、ナベプロ主導では成功しなかった。
そして、これからの歌謡界はスタ誕が一つの中心となるだろうという、私などの視聴者の予感は、まさに現実のものとなりつつあった。

こうして、春に勃発した日テレ×ナベプロ戦争は、年末には趨勢が決していた。
そして、勝ち馬に敏な業界人からすれば、レコード大賞という業界最大のイベントにおいて、スタ誕の桜田淳子と、ナベプロのアグネス、どちらに乗るかは自明だったのかも知れない。

さらに付け加えたいことがある。
この一年前、72年のレコード大賞最優秀新人賞は麻丘めぐみだった。
しかし、これには当時批判があったらしい。話題性、売上、歌唱、あらゆる点で森昌子の方が上だったからだ(翌年には売上は逆転するけれど)。
日テレ色が強い森昌子に対し、TBSの意地があったのかも知れないが、さらには、スタ誕制作陣がナベプロ派ではなかったため、意識的に軽んじられた…と見るのは、うがちすぎだろうか。
しかし、この潮流では、それをあがなわないわけにはいかない。

総合すれば、前年の森昌子の落とし前として、また、今後も供給源となり続けるのは確実なスタ誕への目配せとしての20票であり、つまりは「スタ誕」と「中三トリオ」を背負った「最優秀」だったと、私には思える。

レコ大ではなく日本歌謡大賞での話だが、地方ロケでホテルにいたスタ誕スタッフは、その放送中継をテレビで見ていたそうだ。
番組プロデューサーだった金谷勲夫の言を挙げる。
「淳子が新人賞を穫った瞬間は"オォー"と歓声があがったんですが、その後誰も何も言わないんですよ。そっと見ると、僕も涙がボロボロ出ていたんだけど、周りの連中もみんな泣いていて……」
その涙は、ただ単に一人の少女の成功を言祝ぐだけのものではなかっただろう。

こうして桜田淳子は、クーデターめいた造反側の尖兵として、帝国の対抗馬を抑え、この年の新人賞を総なめした。
そのことをあえて扇情的な惹句で綴るなら…「地方出身の15歳の少女が、ナベプロ帝国を覆してしまった」といった感じだろうか。

だからといって、桜田淳子は偉大だったと言う気は、毛頭ない。
彼女がそうなったのはただの巡り合わせだし、運命を引き寄せたことまで本人の力とするような考え方は、私は採らない。

…けれども、山口百恵神格化の反動として彼女を矮小化したり、宗教問題によりそのキャリアを腫れ物とし、なかったことにするのも絶対に間違いである。

15歳という若さで、新人賞レースの覇者。そして、71年に萌芽したアイドル歌手というスタイルの正統的な継承者であり、同時に、花開きつつあるスタ誕時代の旗手。
人気投票やレコード売上を左右する、コアなファン数はそれほど多くなかったにせよ、73年に最も有名な中学生は「桜田淳子」だった…そう言って過言ではないと、私は思う。

桜田淳子のデビューは幸運に恵まれていた…普通に言えばそういうことだろう。
だが、私はそう思っていない。それがもたらした大きすぎる知名度は、何よりも彼女自身を追いつめたのだから。

スタ誕秋田大会がもう半年遅かったなら、確実に別の誰かがその位置にいただろう。そうであっても彼女はスタ誕に応募したはずだし、500点オーバーのような点数ではなくとも合格はしただろうし、デビューが74年中に間にあえば、それなりに人気は博したろう。
そして、スタ誕アイドル路線の二番手、三番手というポジションならば、持ち前の負けん気と向上心が、もう少しきちんと外に向かえたのではないか。結果として、現在の彼女の不在はなかったかも……詮無きことだけれど、そんな風に思えてならないのだ。

妄想をさらにたくましくするなら、役者への転進はもっと早く、二時間ドラマの女王は、片平なぎさではなく桜田淳子になっていた…かも知れない(笑

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1973年編のあとがき

「青い鳥の謎」から続く73年編、ようやく脱稿しました。長かった…
…って、まだデビューした年の、しかも「存在感」という観点に絞って、この有様。先は長いぜ(苦笑
ずっと編年体でやっていくつもりはないのですが、75年は書かないわけにはいかないでしょうね。あと、77年や80年は彼女自身の大きな節目の年だし、どうすべきか…うーん。

しかし、日テレ×ナベプロ戦争ですが、そんなことになっていたとは、当時の私にはまるでわからなかったです(笑
ただ、紅白ベストテンが、いっとき妙に寂しくなって「何だかへんてこりんだなぁ」とか思った記憶があるのですが、それがその時だったかも知れません。

あと、この件でソースを色々とあたってみましたが、情報が妙に錯綜していますね。
例えば、阿久悠の「夢を食った男たち」でも触れられてますけど、時系列があいまいで、この戦争がスタ誕を生んだ…としか読めない書き方となってます。

しかし、事実としては、71年のスタ誕開始時のアシスタントはナベプロのタレントだそうだし、ゲストとしてもナベプロ歌手は何度となく出演していたわけで、73年より前には特に目立った対立はしていないはずなんです。

彼は、業界全体がナベプロ派とアンチ派に二分されていたかのようにも述べてますけど、実際には「ナベプロの顔色を積極的に伺う派」と「もうちょっと好き勝手に作りたい派」程度だったのかも。

ところで、私がスタ誕トリオの印象が当時から強いのは、私の出身地方のテレビ局が日テレ系列だったのが大きいのかも知れません。あの頃の紅白ベストテンでは、誰か一人は必ず出ているといった感じだったかと。
逆に私は、レコード大賞の模様を、実はリアルタイムでは見ていません。私の田舎ではTBSの系列局はなかったので。

そうそう、このポストを、35年後のちょうどこの日にアップしたのは、ただの成り行きです。年内には絶対…と思っただけで、決して意図したものではありません(笑

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初心表明

え、「所信」の誤記じゃないかって?
いえ、年があらたまったこの機会に、このブログを始めた動機を、自分でもう一度確認したいなあ…という意味を込めたタイトルで。

このページで私は、桜田淳子さんについて、あれこれ思うところを好き勝手に綴っていますが、彼女を広く知らしめようといった意図は、特にありません。

実際問題、世のほとんどの人にとっては、もう「桜田淳子」なんてどうでもいいことでしょう。
また、未だに関心がある方は、既に十分な知識をお持ちでしょうから、私の書く内容は、言わずもがなのことか、ただの思い込みか、大抵はそのどちらかと思います。
つまり、情報媒体的な意味は、ないに等しいかと。

ただ、彼女はかつて、あれほどの知名度があって、長い芸歴もありながら、一般の人々からはずっと誤解され、理解されずにきた…という思いが、私にはくすぶっています。
「もの言わぬは腹ふくるるわざ」と申しますが、何十年もたって腹腔内で発酵し臭い立った、「私が思うところの、真実の桜田淳子」を、ただ排泄し(びろうですみません)、すっきりしたいという、個人の生理的欲求を晴らしているだけですね。

ちなみに、私にとっての真実が「事実」だと言う気は全くないです……と言いますか、真実も人それぞれと考えておりますので。

ちょいとばかり私の考え方を開陳しますと…
私は、特定の見方に固執するのがむしろ嫌いです。止揚し変化していく方がよっぽど面白いと思うし、明日には正反対のことを言うのも、全然ありと思います(笑
ですから、突っ込みは大歓迎ですし、私の駄文が、反面としてであっても、どなたかの真実の深化の一助になったなら、それは望外の喜びですね。

それと、このブログではこれからもしばしば、淳子さんを惜しみ、状況を嘆くと思います。
しかし、彼女の復帰の機運を、同好の士と盛り上げようという意図もないのです。

もし私が、現在の「桜田淳子」を見たいかと聞かれれば、それは心底そう思います。
一ファンとして、年輪を重ねた彼女のパフォーマンスがどんなものか見てみたいし、トークやバラエティ番組などで、今ならどんな仕草、しゃべり方をするのか確認したい。
ただ、彼女の性格から推して、宗旨替えはまずないでしょう。去年の「声の手紙」には、棄教しないという意志も込められていると、私は受け止めています。

言わずもがなのことですが、自分に言い聞かせる意味も込め、あえて書きます。
今のままでは、たとえ制作者にその気があったとしても、大してあると思えない需要に比べ、風評などの点でデメリットが大きすぎる。スポンサードの面から見ても、実現は困難でしょう。それに、強行すれば、彼女にとって何より大事なはずの家族に、不快な事態が起こるのは目に見えています。
残念なことですが、彼女が教団外の公の仕事に就くのは、見果てぬ夢と終わるでしょう。

余談ですが、ただプライベートとして、ネットに彼女が書き込みすることはあるでしょうか?
…予測は不可能ですが、彼女は、私的な場で人の注目を浴びることを妙に恐れた人でした。その気質が変わってないとすれば、考え難い気がします。

もう一つ余談。
淳子さんは、歌手時代、融通の効かない正論を振りかざして、現場スタッフを困惑させることもあったと伝え聞きます。
「お父様」が天に召されたあと、幹部たちのたがが緩んでいくだろうと私は思ってますが、そんなとき、彼らに厳格な教義の遵守を求め、同様に辟易させるかも…なんて想像すると、ちょいとばかり溜飲が下がりそうな。
…すみません、不謹慎でしたかね(苦笑

話を戻します。
このブログは、淳子さんを思い起こすたび湧き上がるやりきれない思いを、紛らわすために始めたことでもあります。

彼女は、確かに歌手としてはそれほどではなかったかも知れない。けれども、芸能人として得がたい天分を持っていたと私は信じていますし、異常なほどに努力も重ねた人です。

その才能と努力の結果がこの現状というのは、あまりに悲しすぎる。

個人的な思い入れゆえに、彼女は誰よりも報われてしかるべきと思っていたし、日の当る道をずっと歩んでいて欲しかった。
さらには、私自身が昔、彼女の最も素晴らしい仕事のいくつかに、立ち会うことが出来たのに、そうしなかったという、悔やんでも悔やみきれない思いがあります。

こういった不幸なすれ違いは、世にいくらでもある、仕方のないことでしょう。そうかといって、納得もできません。せいぜい、その不条理と「折り合う」くらいしか。
方法としては、その対象に虚心で向かい、率直に気持ちを吐露するのが一番に思います。苦しいときは、元気な歌より悲しい歌の方が癒されるように。

実際、おかげ様で随分と落ち着くことができました。本当に始めてよかったと思っています。

まあ、自分が楽になるのが基本の主旨なので、続けることが重荷とならないレベルで、今後も地道にやっていきたいと思っています。
こんなサイトでよければ、よろしくお付き合い下さい。

PS.
そうそう、私が対外的に望むことが一つだけありました。せめて、昔の彼女の仕事はちゃんと世に残して欲しいということ。
例えば、彼女の主演作品は、まだ一本も映像ソフトになっていないですしね…

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はるけき75年

桜田淳子論の1975年編、悪戦苦闘しております。

淳子さん爆発の年ですよね。
ただ、単年度で見ていかに成功したかって、書く意義をあまり感じないんです…というか、自分で書いていてちっとも面白くない(苦笑

もちろん、ブレイクの要因を考察するのもテーマとして十分ありでしょうが、例えば、百恵さんには百恵さんなりの、ピンク・レディーにはピンク・レディーなりの成功の理由があって、それぞれ特質があるという点では、どれも一緒なわけで。
なにより、経済誌がやってる感じの後付けの成功分析って、私はどうにも好きになれませんし…

まあ、ぶっちゃけて言えば、この年は桜田淳子の番だった、ということでしょう(笑

今は、もうちょっと俯瞰して75年を位置づけようと考えています。
そうすると、語りたい視点は確かに出てはくるのですが、それでも、そう大した内容にはなりそうにないのに、扱うべきデータ量は膨大…正直、しんどいですね。

とはいえ、ここを乗り越えないと次に行けないので、なんとかがんばります、はい。

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